ポップコーンの原料としてはもちろん、焼いても茹でてもおいしいトウモロコシ。北海道を筆頭に千葉県や茨城県など、国内での栽培も盛んで、私たちにとってとても身近な食物ですね。
そんなトウモロコシが日本に伝来したのが、いつ頃かご存知でしょうか? じつは450年以上も前、安土桃山時代の天正年間(1573〜1591)ことなのです。
安土桃山と言えば、織田信長や豊臣秀吉が活躍した時代。現代に名を残す有名武将も伝来したばかりのトウモコロシを食べていたかもしれません。
そして、その当時の呼び名が、今回のタイトルのクイズにもなっている「玉蜀黍」です。「玉は美しいもの」「蜀は外国」を表しているとも言われていますが、この名前は江戸時代、享保年間の書物「近世世事談」にも登場し、「玉蜀黍ハ天正ノハジメ、蛮船モチ来タル。関東ニテハ唐モロコシトイフ」と記されています。
さて、気になる読み方ですが......、わかりましたか?
「ぎょくしょくきび」「たましょくきび」......ではありません。
答えは、「なんばんきび」です。
ポルトガル人やスペイン人が海を越え、南蛮船で運んできた黍(きび)に似た黄色い植物なので、そう呼ばれたと伝えられています(※1)。
ちなみに、当時、日本へ持ち込まれたトウモロコシは、現在では飼料用とされることがほとんどの硬粒種(フリントコーン)でした。正直、そのまま食べてもあまりおいしくありません。
でも、あのコロンブスが新大陸と考えていたカリブ海地域からヨーロッパに持ち帰った種に由来していると聞かされると、なんだか大航海時代のロマンを感じます。
伝来したトウモロコシは当初、長崎や四国から国内に入っていき、九州の阿蘇山麓や四国の中山間地で栽培されました。その後は、水稲に不向きな土地を中心に全国へと広がっていったとされています。
しかし、さっと茹でておいしく食べられる現代のスイートコーンとは違い、硬粒種(フリントコーン)を食材として使うには一手間が必要でした。
当時の人たちも苦労していたようで、江戸時代初期に刊行された「本朝食鑑」(※2)には、「火にあぶって食べるか、乾燥して粉に挽き、餅にするのもよい」と書かれ、加工して食されていたことがうかがえます。
結局、日本でトウモロコシの栽培が盛んに行われるようになっていくのは、明治時代に入ってからのことです。そのときに大きな役割を果たしたのが、北海道の開拓使でした。
彼らはアメリカから新種であるスイートコーン(甘味種)、デントコーン(馬歯種)などの品種を輸入し、北海道での栽培に成功します。それが南下して本州にも広まったことで、私たちは甘みがあって手軽に調理できるおなじみの味を楽しめるようになったのです。
一方、ポップコーンに使われる爆裂種がいつアメリカから日本に輸入されたかは、明治期という説もありますが、定かではありません。とはいえ、第二次大戦前には「爆弾あられ」という名でポップコーンが食されていたそうです。
この「爆弾あられ」は、お米を大砲のような炒り機で調理した「ポン菓子」の乾燥トウモロコシ版で、映画館や縁日、駄菓子屋などで販売されていました。
それが今のようなポップコーンとして知られるようになったのは戦後のアメリカ占領時代です。進駐軍からの様々な食とカルチャーが日本に流入する中で、ポップコーンも本格的に普及していきました。
その後の詳しい流れは、こちらにまとめられていますので、お楽しみください。
フリトレーのポップコーンの歴史
(※1地域や資料によっては「南蛮黍」と書いて、「なんばんきび」と読む場合もあります)
(※2医者の人見必大が食物全般について記した江戸初期の書籍)
参考書籍
「トウモロコシの世界史」神となった作物の9000年
著・鵜飼保雄 発行・悠書館(2015年1月30日発刊)
参考ページ・10章256ページから279ページ